花を確認していないので確かなことはいえないが、この木はおそらくサルスベリ。少し前に見かけてから、ここへ来るたびに気にするようになった木である。
サルスベリは、夏に長い期間にわたって印象的な赤い花を咲かせる(ピンク色や白い花のものもある)。それで「百日紅」という漢字が当てられる。
雨の日に、屋久島の森を歩いたときにも、ヒメシャラの木に出会うたびにどきりとした。ヒメシャラもまたサルスベリのように滑らかな肌をしている。薄暗い森の中にあって、雨がその木肌を伝って光ると、それは何か危ういほどもろい柔肌のように見える。しかし、近づいてよく見れば、それは力強い筋肉のようにも見えてくる。
雨は都市の生活にとって、やっかいなものだ。しかし、ぬれた後に服や靴がどうなるとか、寒くなるから着替えねばとか、先々の煩わしいことを考えるのをやめてしまえば、その景色は美しい。
佐藤秀明さんの写真集に、雨の風景を集めた『雨のくに』(ピエ・ブックス刊)というものがある。見る者の内に染みてくるような光景のなかには、深い山を煙らせる雨もあるのだが、近所に買い物に出たときにふと見かけるような日常の景色も含まれている。心を留めれば、こんなにも美しい風景が身近にあるのだ、と気づかされる。
雨が木々の存在を光らせるのは、木々が水を欲する生命だということもあると思う。自らの行動で水にありつける動物と違い、動かぬ木々はただ雨を待つ。だからしばらくぶりの降雨は、木々の生命感をも際立たせるのではないだろうか。
都市における雨は、木々だけでなく人工物さえも輝かせる力がある。これは見る側のとらえ方にもよるのだが、そのように見える(感じられる)のは、おそらく樹木同様われわれ人間が水を求める生命であることにも原因があるだろう。
ただもうひとつ思うのは、雨が自然のものであるということ。いくら人間ががんばって無機質な人工物を造り上げても、有機的な自然に属する雨が降れば、ほとんどのものが水に覆われる。すべてのものが自然に包まれる。それが雨の風景を美しいと感じさせるゆえんではないだろうか。
雨の中で、百日紅がぬれている。薄曇りの空の下、薄紅色の肌に光を集めて。


このイチョウが気になって、喫茶室に入ってもイチョウが見える窓際の席に座った。独立して立つ木の向こうに光がともると、クリスマスツリーを思わせる。その後も窓の外のイチョウは人気を集め、何人かのカメラに収まっていた。